2016年04月05日
40年前の信州撮影行 今に繋がる「サムシング」
ちょうど40年前の今時分、「信州ワイド周遊券」を手にして、長野県内を縦横無尽に巡っていました。
中学を卒業して高校へ入学する間の春休み期間、
志望校への受験に失敗して失意の中、春浅き信濃路への旅立ちでした。
当時、「信州ワイド周遊券」は学割で3000円ポッキリと破格なうえ、自由周遊区間も長野県内すべての国鉄線と国鉄バス、それと山梨県側の小海線も含まれているのに加え、
急行であれば自由席への乗車も可能で、
コストパフォーマンスに優れたたいへん乗りドクな周遊券でした。
初日、2日目は守屋山登山と飯田線にて輸入電機を撮影
新宿駅23時55分発長野行き夜行普通列車441Mに乗って、早朝、降り立ったのが茅野駅。
ここで1時間ほど待って伊那市(伊那北)行き国鉄バスに乗って杖突峠へ。
高校での部活として「ワンダーフォーゲル部」への入部を考えていたことから、予行演習として比較的登りやすいと思われた守屋山(1651m)登山に挑戦します。
中学時代、遠足ていどでしかの登山経験がなく、ましてや単独で登るのは人生初体験。
まだ冬の気候が優勢で樹々には霧氷が覆われていましたが、幸いにも登山道には雪はなく、それでも初めて経験する急登にバテながらも、なんとか守屋山西峰に登頂することができました。
出発時、姿を見せていた八ヶ岳も、残念ながら雲が湧きあがってしまい、視界には恵まれず、近場の山並みを記録するに過ぎませんでしたが、これまたお初の霧氷を前にシャッターを切っていました。
霧の去来から不安を感じ三角点のある東峰には立ち寄らず、そのまま来た道を杖突峠まで引き返し、お昼前後の国鉄バスで花開く前の高遠を経由して伊那北駅へと出ています。
この国鉄バス路線、飯田線〜中央本線を結ぶルートとして結構、旅では重宝して、その後、何度か乗っているのですが、いつの間にか廃止されてしまいました。
伊那北駅で間もなくやって来た下り貨物列車(277レか!?)をスナップ。
ここからは「鉄分」モードへの切り替えとなりました。
アメリカのウェスティングハウス社とボールドウィン社による合作で、東海道本線電化に際して1926年(大正15)輸入された当時はED53を名乗り、
その後、貨物用としてギヤ比を改めて改造されたED19-3をパチリ☆彡
タブレットのキャリアを持った駅員さんの姿とともに角張った小型電機が昭和の風景ですね。
次の下り電車で北殿駅に向かい、田んぼが広がる中で今度は上り貨物(252レか!?)を撮りました。
こちらは現在、「リニア鉄道館」に展示保存されているED18-2。
イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社製で、大正期の落成当時はED17を名乗りましたが、
戦後、低規格路線に転用するため台車をA-1-A+A-1-Aという駆動輪の間に走輪を一軸設けた改造を施し、ED18と形式を改番しています。
この上り貨物列車、次の上り電車(急行こまがね3号か?)で追いかけを試みて駒ヶ根と小町屋の間でも撮っているようです。
この日は駒ヶ根ユースホステルに宿泊、
翌朝は朝から晴れわたり、中央アルプスの山並みも綺麗に姿を見せてくれ、お立ち台として知られる田切のΩカーブと中田切川橋梁、
午前中と、
夕方訪れています。
中央アルプス空木岳、南駒ヶ岳を背景にできる撮影名所、昔も今も変わらぬ佇まいです。
このあと下り電車で辰野へと向かっていますが、珍しく長時間停車中に列車の先頭を撮っています。
お顔からすると、クモハ51か54、クハ68といった感じですが、メモを取っていなかったので、詳細は分からず…。
辰野駅では確か「杣人弁当」なる駅弁を購入して、長野へと向かい、
急行「きそ5号」をネグラにして木曽福島駅折り返しで再び長野へと戻る予定を組んだのですが、
寝過ごしてしまい、やむなく中津川駅での下車となり、自由周遊区間外に出たことから、田立〜中津川間の乗車券と急行券を精算するなど、余分な出費となりました。
3日目は木曽路を客車列車に揺られて松本城、そして善光寺へ
中津川駅の待合室で夜を明かして、翌朝、一番の中央西線・塩尻方面行きが、80系電車化された中、唯一客車列車だった長野行き835列車!
せっかくのハプニング、その当時でも珍しい客レに揺られ車窓を満喫しつつ、長野まで乗り通すのも悪くはないと気持ちを切り替え、旧い客車の中、ワンボックスを占めての汽車旅、
夜行の「きそ5号」も客車列車でしたが、夜と昼とでまったく異なり、なんといっても景色が見えることに大満足で、
木曽川が展開する信濃路の風景、
廃線になったばかりの木曽森林鉄道王滝線の橋梁跡やチラリ姿を見せた御嶽山などなど、
その後の鉄道趣味を展開するうえでは、たくさんの引っかかりがありました。
鳥居峠を越えた奈良井駅では特急「しなの」待避のため、長時間停車となりましたが、その時撮ったスナップが唯一の西線における客車列車の記録となりました。
EF64-32号機を先頭にオユやマニといった荷物・郵便車を5両も連ねておきながら、客車は確か3両ていどしか連結されておらず、
どちらかと言うと、荷物のついでにお客さんも乗せる、といった感じの列車でした。
1970年代、80年代前半の、西線、篠ノ井線において貴重な客車列車で、その後の数年の旅行記録からすると、もう少し「らしい」場所で撮ることが可能でしたが、実現できず、でしたorz
この列車、松本駅で列番が2835レと変わり、同駅では長時間停車をするので、その間に松本城を見学しようと思ったのまでは良かったのですが、
バッグを持ってのダッシュは億劫に思われ、網棚か座席に置きっ放しにして出かけてしまったので、
元の座席に戻るとあるはずの荷物が無くなっているのに大わらわとなり、
泣く泣くこれから姨捨越えする客車列車を見送るハメとなりました。
幸いにして、荷物は遺失物として駅事務所に届けられており、事なきを得て、次発の急行「赤倉」で長野へと向かいました。
件の2835レは姨捨駅か桑ノ原信号場かのスイッチバックにこの列車の待避中でした。
見てみたかった善光寺平のパノラマ、
キハ58系の車窓でも展開したのですが、今でも客車列車でのスイッチバック体験が叶わなかったこと、悔まれます。
とんだハプニングで長野駅には早く着いたので、ゆっくりと善光寺参拝に向かえば良かったのですが、ここでも判断ミスを冒してしまいます。
鉄道好きとしては長電の善光寺下駅から歩いて善光寺参りするつもりでしたが、長電の乗り場を訊ねたところ、善光寺まではバスのほうが便利だと諭され、
それに従ってしまったので、地下化される前の長電乗車のチャンスを自らツブしてしまいました。
ともあれ、目の当たりにした善光寺本堂に圧倒されつつ、お参りとお戒壇巡りを済ませましたが、
この時、まさかその約15年後に善光寺さんのお膝元へと移り住むとは思いもよらず。
生活圏となった善光寺さんへ初めてカメラを向けたのが↑なのです。
参拝を終えこれまたバスで長野駅に戻り、駅舎が特徴的だった長野駅にもレンズを向けていました。
善光寺を模した仏閣型駅舎は存在感ありました。
旅の締めくくりは小海線乗車
3日目の夜、果たしてどのように過ごしたのか定かではありませんが、おそらくは前日に失敗した「きそ5号」木曽福島折り返しなのかなぁ、なんて思います。
小淵沢駅から野辺山駅まで、小海線を往復乗車しているので、塩尻駅から東線に乗り換えていることは確かです。
ただ、小淵沢から乗った小海線下りは甲斐小泉駅で貨物列車と交換しているため、さすればお昼過ぎの気動車(239D!?)と思われ、
それまで午前中はなにをしていたのかが、写真の記録がないため辿ることできず、です。
ただ、野辺山から折り返して乗ったのが特徴ある塗り分けのキハ55だったのはラッキーでした。
「旧急行色」、そんな文言がググってみると、出てきました。
当時、そんなに珍しくなかったキハ55ですが、この塗り分けの仕方にはいささか衝撃的でした。
天気があまり宜しくなく、期待した八ヶ岳や南アルプスの車窓は展開しませんでしたが、
とにかく憧れの小海線に短区間とは言え、乗車できたことに満足していました。
小淵沢からは115系の新宿行きで立川まで乗車、足かけ5日に及ぶ旅はお開きとなりました。
奇しくもこの旅では信州の四つのエリア、
茅野、伊那の南信に始まり、木曽・松本の中信、善光寺の北信、そして野辺山の東信エリアを巡ることができ、
そして、鉄道撮影ばかりではなく、登山や観光を行ない、その後、住むことになる長野市を訪れていることに、
現在に繋がる「何か」があったような気がします。
果たしてその「何か」はとても漠然としているのですが…。
こうしてちょうど40年前に撮った写真、
コマによっては黄ばみが激しかったり、退色してモノクロにせざるを得なかったり、なによりも下手くそで構図や狙いに対するツッコミどころ満載なのですが、
見返してみると15歳だった自分が時空を超えて「何か」を語りかけているような、そんな気がします。
*中央本線・茅野駅、守屋山、飯田線・伊那北駅、北殿〜木ノ下、田切〜伊那福岡、中央本線・奈良井駅、善光寺、信越本線・長野駅、小海線・野辺山駅にて
PENTAX KX+50mm
1976.4.2〜5撮影
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新宿駅23時55分発長野行き夜行普通列車441Mに乗って、早朝、降り立ったのが茅野駅。
ここで1時間ほど待って伊那市(伊那北)行き国鉄バスに乗って杖突峠へ。
高校での部活として「ワンダーフォーゲル部」への入部を考えていたことから、予行演習として比較的登りやすいと思われた守屋山(1651m)登山に挑戦します。
中学時代、遠足ていどでしかの登山経験がなく、ましてや単独で登るのは人生初体験。
まだ冬の気候が優勢で樹々には霧氷が覆われていましたが、幸いにも登山道には雪はなく、それでも初めて経験する急登にバテながらも、なんとか守屋山西峰に登頂することができました。
出発時、姿を見せていた八ヶ岳も、残念ながら雲が湧きあがってしまい、視界には恵まれず、近場の山並みを記録するに過ぎませんでしたが、これまたお初の霧氷を前にシャッターを切っていました。
霧の去来から不安を感じ三角点のある東峰には立ち寄らず、そのまま来た道を杖突峠まで引き返し、お昼前後の国鉄バスで花開く前の高遠を経由して伊那北駅へと出ています。
この国鉄バス路線、飯田線〜中央本線を結ぶルートとして結構、旅では重宝して、その後、何度か乗っているのですが、いつの間にか廃止されてしまいました。
伊那北駅で間もなくやって来た下り貨物列車(277レか!?)をスナップ。
ここからは「鉄分」モードへの切り替えとなりました。
アメリカのウェスティングハウス社とボールドウィン社による合作で、東海道本線電化に際して1926年(大正15)輸入された当時はED53を名乗り、
その後、貨物用としてギヤ比を改めて改造されたED19-3をパチリ☆彡
タブレットのキャリアを持った駅員さんの姿とともに角張った小型電機が昭和の風景ですね。
次の下り電車で北殿駅に向かい、田んぼが広がる中で今度は上り貨物(252レか!?)を撮りました。
こちらは現在、「リニア鉄道館」に展示保存されているED18-2。
イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社製で、大正期の落成当時はED17を名乗りましたが、
戦後、低規格路線に転用するため台車をA-1-A+A-1-Aという駆動輪の間に走輪を一軸設けた改造を施し、ED18と形式を改番しています。
この上り貨物列車、次の上り電車(急行こまがね3号か?)で追いかけを試みて駒ヶ根と小町屋の間でも撮っているようです。
この日は駒ヶ根ユースホステルに宿泊、
翌朝は朝から晴れわたり、中央アルプスの山並みも綺麗に姿を見せてくれ、お立ち台として知られる田切のΩカーブと中田切川橋梁、
午前中と、
夕方訪れています。
中央アルプス空木岳、南駒ヶ岳を背景にできる撮影名所、昔も今も変わらぬ佇まいです。
このあと下り電車で辰野へと向かっていますが、珍しく長時間停車中に列車の先頭を撮っています。
お顔からすると、クモハ51か54、クハ68といった感じですが、メモを取っていなかったので、詳細は分からず…。
辰野駅では確か「杣人弁当」なる駅弁を購入して、長野へと向かい、
急行「きそ5号」をネグラにして木曽福島駅折り返しで再び長野へと戻る予定を組んだのですが、
寝過ごしてしまい、やむなく中津川駅での下車となり、自由周遊区間外に出たことから、田立〜中津川間の乗車券と急行券を精算するなど、余分な出費となりました。
3日目は木曽路を客車列車に揺られて松本城、そして善光寺へ
中津川駅の待合室で夜を明かして、翌朝、一番の中央西線・塩尻方面行きが、80系電車化された中、唯一客車列車だった長野行き835列車!
せっかくのハプニング、その当時でも珍しい客レに揺られ車窓を満喫しつつ、長野まで乗り通すのも悪くはないと気持ちを切り替え、旧い客車の中、ワンボックスを占めての汽車旅、
夜行の「きそ5号」も客車列車でしたが、夜と昼とでまったく異なり、なんといっても景色が見えることに大満足で、
木曽川が展開する信濃路の風景、
廃線になったばかりの木曽森林鉄道王滝線の橋梁跡やチラリ姿を見せた御嶽山などなど、
その後の鉄道趣味を展開するうえでは、たくさんの引っかかりがありました。
鳥居峠を越えた奈良井駅では特急「しなの」待避のため、長時間停車となりましたが、その時撮ったスナップが唯一の西線における客車列車の記録となりました。
EF64-32号機を先頭にオユやマニといった荷物・郵便車を5両も連ねておきながら、客車は確か3両ていどしか連結されておらず、
どちらかと言うと、荷物のついでにお客さんも乗せる、といった感じの列車でした。
1970年代、80年代前半の、西線、篠ノ井線において貴重な客車列車で、その後の数年の旅行記録からすると、もう少し「らしい」場所で撮ることが可能でしたが、実現できず、でしたorz
この列車、松本駅で列番が2835レと変わり、同駅では長時間停車をするので、その間に松本城を見学しようと思ったのまでは良かったのですが、
バッグを持ってのダッシュは億劫に思われ、網棚か座席に置きっ放しにして出かけてしまったので、
元の座席に戻るとあるはずの荷物が無くなっているのに大わらわとなり、
泣く泣くこれから姨捨越えする客車列車を見送るハメとなりました。
幸いにして、荷物は遺失物として駅事務所に届けられており、事なきを得て、次発の急行「赤倉」で長野へと向かいました。
件の2835レは姨捨駅か桑ノ原信号場かのスイッチバックにこの列車の待避中でした。
見てみたかった善光寺平のパノラマ、
キハ58系の車窓でも展開したのですが、今でも客車列車でのスイッチバック体験が叶わなかったこと、悔まれます。
とんだハプニングで長野駅には早く着いたので、ゆっくりと善光寺参拝に向かえば良かったのですが、ここでも判断ミスを冒してしまいます。
鉄道好きとしては長電の善光寺下駅から歩いて善光寺参りするつもりでしたが、長電の乗り場を訊ねたところ、善光寺まではバスのほうが便利だと諭され、
それに従ってしまったので、地下化される前の長電乗車のチャンスを自らツブしてしまいました。
ともあれ、目の当たりにした善光寺本堂に圧倒されつつ、お参りとお戒壇巡りを済ませましたが、
この時、まさかその約15年後に善光寺さんのお膝元へと移り住むとは思いもよらず。
生活圏となった善光寺さんへ初めてカメラを向けたのが↑なのです。
参拝を終えこれまたバスで長野駅に戻り、駅舎が特徴的だった長野駅にもレンズを向けていました。
善光寺を模した仏閣型駅舎は存在感ありました。
旅の締めくくりは小海線乗車
3日目の夜、果たしてどのように過ごしたのか定かではありませんが、おそらくは前日に失敗した「きそ5号」木曽福島折り返しなのかなぁ、なんて思います。
小淵沢駅から野辺山駅まで、小海線を往復乗車しているので、塩尻駅から東線に乗り換えていることは確かです。
ただ、小淵沢から乗った小海線下りは甲斐小泉駅で貨物列車と交換しているため、さすればお昼過ぎの気動車(239D!?)と思われ、
それまで午前中はなにをしていたのかが、写真の記録がないため辿ることできず、です。
ただ、野辺山から折り返して乗ったのが特徴ある塗り分けのキハ55だったのはラッキーでした。
「旧急行色」、そんな文言がググってみると、出てきました。
当時、そんなに珍しくなかったキハ55ですが、この塗り分けの仕方にはいささか衝撃的でした。
天気があまり宜しくなく、期待した八ヶ岳や南アルプスの車窓は展開しませんでしたが、
とにかく憧れの小海線に短区間とは言え、乗車できたことに満足していました。
小淵沢からは115系の新宿行きで立川まで乗車、足かけ5日に及ぶ旅はお開きとなりました。
奇しくもこの旅では信州の四つのエリア、
茅野、伊那の南信に始まり、木曽・松本の中信、善光寺の北信、そして野辺山の東信エリアを巡ることができ、
そして、鉄道撮影ばかりではなく、登山や観光を行ない、その後、住むことになる長野市を訪れていることに、
現在に繋がる「何か」があったような気がします。
果たしてその「何か」はとても漠然としているのですが…。
こうしてちょうど40年前に撮った写真、
コマによっては黄ばみが激しかったり、退色してモノクロにせざるを得なかったり、なによりも下手くそで構図や狙いに対するツッコミどころ満載なのですが、
見返してみると15歳だった自分が時空を超えて「何か」を語りかけているような、そんな気がします。
*中央本線・茅野駅、守屋山、飯田線・伊那北駅、北殿〜木ノ下、田切〜伊那福岡、中央本線・奈良井駅、善光寺、信越本線・長野駅、小海線・野辺山駅にて
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今日からゴハチの年齢…
45年目の10月14日
国鉄分割民営化から30年目の3月31日
干支ひとまわりした1月19日に思うこと
鉄道144周年〜44年前のD51-498を添えて
43年前(1973)8月19日の小海線「SLのべやま号」
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Posted by 32Count at 18:00│Comments(3)
│鉄道アーカイブ
この記事へのコメント
黒貨車がゴロゴロ と思っていたら、お宝がザクザクな写真群で御座います
涎が・・・(^^♪
涎が・・・(^^♪
Posted by DT33 at 2016年04月06日 00:13
32Countさま
舶来電機や角付き塗装のキハ55、それに旧長野駅。
どれをとってもしみじみとあの時代が目のあたりに迫ってきます。
15の青春の一コマ一コマが人生の足跡ですね。
これ以上劣化しないように大切に保存してください。
舶来電機や角付き塗装のキハ55、それに旧長野駅。
どれをとってもしみじみとあの時代が目のあたりに迫ってきます。
15の青春の一コマ一コマが人生の足跡ですね。
これ以上劣化しないように大切に保存してください。
Posted by 狂電関人 at 2016年04月07日 17:58
DT33さんへ
40年前ともなると、まさに国鉄ど真ん中でしたね。
惜しむらくは中央西〜篠ノ井線を直通した客レの走行写真を撮らなかったこと。
ホント、チャンスはいくらでもあったのですが…。
狂電関人さんへ
ポスト蒸気機関車を考えていた時代でした。
もう少し真剣に取り組んでいたら、なんて、今では思うのですが、当時、これが精一杯だったかも!?
ネガ、ポジの退色、
原版の保存状態に加え、劣化が進む前にデジタルデータでの保存も本格的に考えないと、ですね。
40年前ともなると、まさに国鉄ど真ん中でしたね。
惜しむらくは中央西〜篠ノ井線を直通した客レの走行写真を撮らなかったこと。
ホント、チャンスはいくらでもあったのですが…。
狂電関人さんへ
ポスト蒸気機関車を考えていた時代でした。
もう少し真剣に取り組んでいたら、なんて、今では思うのですが、当時、これが精一杯だったかも!?
ネガ、ポジの退色、
原版の保存状態に加え、劣化が進む前にデジタルデータでの保存も本格的に考えないと、ですね。
Posted by 32Count at 2016年04月08日 22:49