2015年07月24日
国内での海外体験〜横田基地での結婚披露宴出席とその前日
月イチで東京都下・八王子へ出張っています。
その時の拠点として埼玉の妹家族宅にご厄介になるのが通常で、帰り道には国道16号線を通ってきますが…、
八王子インターを過ぎると、父が勤めていた会社のプラントがあった拝島橋、かつては渋滞のメッカだった小荷田交差点、
拝島駅前、青梅・五日市・八高の各路線を跨ぐ武蔵野橋、そして、福生界隈の横田基地を右に見て北上し、
黄昏時、滑走路の誘導灯が青白く灯るあたり、
まさに、ガキの頃から社会人になるまでの遊び場であり、これらの地名を目の当たりにすると、とても懐かしく思えてきます。
とくに横田基地周辺…、
米軍関係者を意識した英語表記の看板が目につき異国情緒を感じましたが、以前に比べるとオシャレなショップが増えていることに気がつき、
あたりをうろうろ。
「Yokota Base Side Street」として、店名を記したマップまであり、路肩には路駐して買い物をする光景がちらほら見られました。
定番の(!?)軍放出品を販売する店や雑貨店、アパレルショップ、飲食店が軒を連ねておりましたが、
残念ながら50代半ばのオッサンが入るのには敷居が高すぎて、歩くのみに終わりました。
夕方の時間帯とあって、訓練を終えたC130輸送機が超低空で着陸態勢に入るのを間近に見たりして、驚かされる中、
国道から基地内に通じるゲートに今から約四半世紀前の出来事を思い出しました。
学生時代、アルバイト先の山小屋で知り合った女友達が、基地関係者のアメリカ人と結婚する運びになり、
披露宴はベース内にあるコンベンションホールにて執り行われました。
私は新郎新婦の子供の頃から現在に至るまでの写真をスライドに複写をして、
プロジェクターで投影する係りを担当!
一般の公開日以外に横田基地の中に入ることが許されたのです。
披露宴の前日から会場に入り、写真の順番や英語と日本語でアナウンスする別の女友達との念入りな打ち合わせをすると、暗くなってきました。
アメリカの習慣なのでしょうか、結婚式の前日は、新郎側の男友達と新婦側の女友達とが、おのおのに独身最後の夜を楽しむしきたりがあるようで、
私はアメリカ人の新郎側の宴に誘われ、新郎と職場の仲間たちとバーに入って飲むことになりました。
中学、高校、大学と9年間も英語を学び、新卒で最初に配属されたのは貿易部門だったのにもかかわらず、
ホント片言でしか話すことも、聞くこともできず、
日本人は自分ひとり、まわりは皆アメリカ人と、生まれて初めて日本語が通じないアウェーな空間に放り出され、
なんとか会話の中に入ろうと必死に努力するものの、3割ていどの理解でした。
それでも、日本にあって「異国」である横田基地のバーでのひと時はとても30代になるかならないかの私にとって刺激的で楽しいものには変わりなく…。
確か決済はドル立てだったので、どこかで両替した記憶が…。
私の遅い「海外体験」、それは治外法権の「ほぼ」旧地元・横田基地だったりします。
沖縄を含めた米軍基地問題で揺れる昨今、25年ほど前は、まだ大らかな雰囲気がありました。
*横田基地周辺にて(東京都福生市)
NikonD700+VR24〜120mm
2015.7.14撮影
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米軍関係者を意識した英語表記の看板が目につき異国情緒を感じましたが、以前に比べるとオシャレなショップが増えていることに気がつき、
あたりをうろうろ。
「Yokota Base Side Street」として、店名を記したマップまであり、路肩には路駐して買い物をする光景がちらほら見られました。
定番の(!?)軍放出品を販売する店や雑貨店、アパレルショップ、飲食店が軒を連ねておりましたが、
残念ながら50代半ばのオッサンが入るのには敷居が高すぎて、歩くのみに終わりました。
夕方の時間帯とあって、訓練を終えたC130輸送機が超低空で着陸態勢に入るのを間近に見たりして、驚かされる中、
国道から基地内に通じるゲートに今から約四半世紀前の出来事を思い出しました。
学生時代、アルバイト先の山小屋で知り合った女友達が、基地関係者のアメリカ人と結婚する運びになり、
披露宴はベース内にあるコンベンションホールにて執り行われました。
私は新郎新婦の子供の頃から現在に至るまでの写真をスライドに複写をして、
プロジェクターで投影する係りを担当!
一般の公開日以外に横田基地の中に入ることが許されたのです。
披露宴の前日から会場に入り、写真の順番や英語と日本語でアナウンスする別の女友達との念入りな打ち合わせをすると、暗くなってきました。
アメリカの習慣なのでしょうか、結婚式の前日は、新郎側の男友達と新婦側の女友達とが、おのおのに独身最後の夜を楽しむしきたりがあるようで、
私はアメリカ人の新郎側の宴に誘われ、新郎と職場の仲間たちとバーに入って飲むことになりました。
中学、高校、大学と9年間も英語を学び、新卒で最初に配属されたのは貿易部門だったのにもかかわらず、
ホント片言でしか話すことも、聞くこともできず、
日本人は自分ひとり、まわりは皆アメリカ人と、生まれて初めて日本語が通じないアウェーな空間に放り出され、
なんとか会話の中に入ろうと必死に努力するものの、3割ていどの理解でした。
それでも、日本にあって「異国」である横田基地のバーでのひと時はとても30代になるかならないかの私にとって刺激的で楽しいものには変わりなく…。
確か決済はドル立てだったので、どこかで両替した記憶が…。
私の遅い「海外体験」、それは治外法権の「ほぼ」旧地元・横田基地だったりします。
沖縄を含めた米軍基地問題で揺れる昨今、25年ほど前は、まだ大らかな雰囲気がありました。
*横田基地周辺にて(東京都福生市)
NikonD700+VR24〜120mm
2015.7.14撮影
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Posted by 32Count at 23:00│Comments(4)
│旅風景
この記事へのコメント
福生の米軍払下げ住宅が、音楽家等が好んで使って、大瀧詠一氏が自宅レコーディングの嚆矢となった 等と数年前に坂崎・拓郎オールナイトニッポンゴールドにフェスト出演した山下達郎氏が語っておりました
矢沢永吉のOhラブシックのPVも福生の米軍住宅で撮影した 読んだ記憶が有ります
矢沢永吉のOhラブシックのPVも福生の米軍住宅で撮影した 読んだ記憶が有ります
Posted by DT33 at 2015年07月25日 22:31
32Countさま
福岡の郷里がベース(旧米軍駐屯地)でしたので、
子供のころに一度だけ独立記念日のカーニバルに
塀の向こうの世界を経験しました。
まだ1ドル360円という固定相場時代でした・・・。
福岡の郷里がベース(旧米軍駐屯地)でしたので、
子供のころに一度だけ独立記念日のカーニバルに
塀の向こうの世界を経験しました。
まだ1ドル360円という固定相場時代でした・・・。
Posted by 狂電関人 at 2015年07月27日 13:33
すいません舌足らずで・・・。
郷里がベースの傍だったのです。
訂正を追記します。
郷里がベースの傍だったのです。
訂正を追記します。
Posted by 狂電関人 at 2015年07月27日 13:36
DT33さんへ
福生、といえば大滝詠一さん、
今、思うと、1980年代前半、カセットテープにダビングした「A LONG VACATION」「NIAGARA TRIANGLE」 「EACH TIME」を聴きながら、国道16号線を走り、八王子インターから信州へ、厚木インターから大井川方面へと撮影に出かけたことが懐かしく思えます。
CD化された音源、聴きながら国道16号線、走りたくなりました。
狂電関人さんへ
ナニゲに多摩地区、この横田に加え、今では昭和記念公園となっているところに米軍立川基地があり、
厚木と自衛隊の入間を含めると、この手の施設が多かったですね。
立川は返還前、一度だけ、妹が生まれる前だったので、1962〜3年頃、出かけたことがありました。
ソフトクリームを母が買ってくれたのですが、米兵から受け取る時、落としてしまったことを、今でも覚えています。
「ある機関助士」では返還前の立川基地を脇に訓練が行われているのが映し出されています。
福生、といえば大滝詠一さん、
今、思うと、1980年代前半、カセットテープにダビングした「A LONG VACATION」「NIAGARA TRIANGLE」 「EACH TIME」を聴きながら、国道16号線を走り、八王子インターから信州へ、厚木インターから大井川方面へと撮影に出かけたことが懐かしく思えます。
CD化された音源、聴きながら国道16号線、走りたくなりました。
狂電関人さんへ
ナニゲに多摩地区、この横田に加え、今では昭和記念公園となっているところに米軍立川基地があり、
厚木と自衛隊の入間を含めると、この手の施設が多かったですね。
立川は返還前、一度だけ、妹が生まれる前だったので、1962〜3年頃、出かけたことがありました。
ソフトクリームを母が買ってくれたのですが、米兵から受け取る時、落としてしまったことを、今でも覚えています。
「ある機関助士」では返還前の立川基地を脇に訓練が行われているのが映し出されています。
Posted by 32Count at 2015年07月28日 21:41