2013年08月18日
最高の爽快感!?、それとも恐怖感!? デッキの段差に腰掛けての2時間半
関西から夜行列車を使って移動してきたので、野辺山の撮影地には一番で到着しました。
今日のようにインターネットが無い時代、撮影場所はほぼ当てずっぽう、
小諸方に少し歩くと、お誂え向きに切り通しでカーブがあったので、ここでカメラを構えたのですが、
あれよあれよと前には人だかりで埋まり、蒸気機関車の通過時はものの見事な鉄ちゃん入りの、しかもまったく煙のない写真が完成しましたが、
人の服装などを見るにつけ、1973年当時が蘇り、今ではこれはこれでありかと、思います。
今日のようにインターネットが無い時代、撮影場所はほぼ当てずっぽう、
小諸方に少し歩くと、お誂え向きに切り通しでカーブがあったので、ここでカメラを構えたのですが、
あれよあれよと前には人だかりで埋まり、蒸気機関車の通過時はものの見事な鉄ちゃん入りの、しかもまったく煙のない写真が完成しましたが、
人の服装などを見るにつけ、1973年当時が蘇り、今ではこれはこれでありかと、思います。
この特別列車、野辺山駅で長時間停車するので、最高地点寄りに移動して、上り列車の2カット目は天狗岳をバックに撮りました。
野辺山駅に戻り、循環急行「のべやま」で小淵沢まで乗車したのですが、
この時、既にかなり疲れがピークに達しており、SLの小淵沢出発が頭にあったものの、
ちょうど中央本線の上りホームには遅れて到着し、旧型客車で組成された「たてしな51」号の姿を見つけてしまい、
渡りに舟と思い予定を変更して飛び乗ったのでした。
しかし、
これが夏の繁忙期の日曜日(だったかな!?)と重なり、デッキから車内に入ることすらできず、
苦肉の策として、扉のステップの段差に腰掛けて、手すりに手を掛けて八王子までの約2時間半を過ごすことになりました。
若い世代の方は信じられないと思いますが、扉の開閉がすべて手動で行われていた旧型客車、走行中も扉は開放されたまま、ということもこの時代は珍しくなく、
場所は遠く離れますが、山陽本線の支線・和田岬線のオハ64が健在なりし頃の朝の通勤では、まさに乗客がデッキにぶら下がっている写真をよく目にしました。
しかし、こちらは本線のまがりなりにも急行列車、
100km/h近くで走る列車の、デッキでの乗り心地は、もう筆舌に尽くせないほど(爆)。
風を受ける爽快感、疾走感は、きょうびのトロッコ列車では味わえません!
しかも複線区間の内側なだけに対向列車がすれ違うとその風圧の凄さはハンパではありませんでした。
この日は晴天で、おそらくは遠くには南アルプスの山並みが広がっていたのでしょう、
しかし、近くを見ると、下り線の線路がまさに二条の線となり、バラストは流れて見えて土色でした。
駅通過時はプラットホームが迫ってきて、それはそれはスピード感ありました(笑)。
意外にもそれほどの恐怖感が無かったと記憶しているには何故でしょう?
最初はもの珍しさからとても興味津々でこの稀有な体験を満喫していましたが、
そのうち睡魔が襲ってきて、うとうとと舟を濃いでしまうことに陥ったのですが、
それに気がついた隣の人が肩を叩いてくれて、ふと我に帰り、最悪の事態を免れたものの、
それでも疲れがピークに達し、笹子トンネルの中では少し眠ったかもしれません。
そして、夕刻、無事に八王子駅のプラットホームに立つことができました。
今では夕方のニュースを賑わすかもしれない事実なのですが、昭和の、高度成長期の国鉄と、それを利用する人もなんともおおらかでした。
一昨日(8/16)、久しぶりに横川からスハフ32に同乗する機会に恵まれ、全開した狭窓から線路を眺めていると、そんな40年前の記憶が蘇ったのでした。
野辺山駅に戻り、循環急行「のべやま」で小淵沢まで乗車したのですが、
この時、既にかなり疲れがピークに達しており、SLの小淵沢出発が頭にあったものの、
ちょうど中央本線の上りホームには遅れて到着し、旧型客車で組成された「たてしな51」号の姿を見つけてしまい、
渡りに舟と思い予定を変更して飛び乗ったのでした。
しかし、
これが夏の繁忙期の日曜日(だったかな!?)と重なり、デッキから車内に入ることすらできず、
苦肉の策として、扉のステップの段差に腰掛けて、手すりに手を掛けて八王子までの約2時間半を過ごすことになりました。
若い世代の方は信じられないと思いますが、扉の開閉がすべて手動で行われていた旧型客車、走行中も扉は開放されたまま、ということもこの時代は珍しくなく、
場所は遠く離れますが、山陽本線の支線・和田岬線のオハ64が健在なりし頃の朝の通勤では、まさに乗客がデッキにぶら下がっている写真をよく目にしました。
しかし、こちらは本線のまがりなりにも急行列車、
100km/h近くで走る列車の、デッキでの乗り心地は、もう筆舌に尽くせないほど(爆)。
風を受ける爽快感、疾走感は、きょうびのトロッコ列車では味わえません!
しかも複線区間の内側なだけに対向列車がすれ違うとその風圧の凄さはハンパではありませんでした。
この日は晴天で、おそらくは遠くには南アルプスの山並みが広がっていたのでしょう、
しかし、近くを見ると、下り線の線路がまさに二条の線となり、バラストは流れて見えて土色でした。
駅通過時はプラットホームが迫ってきて、それはそれはスピード感ありました(笑)。
意外にもそれほどの恐怖感が無かったと記憶しているには何故でしょう?
最初はもの珍しさからとても興味津々でこの稀有な体験を満喫していましたが、
そのうち睡魔が襲ってきて、うとうとと舟を濃いでしまうことに陥ったのですが、
それに気がついた隣の人が肩を叩いてくれて、ふと我に帰り、最悪の事態を免れたものの、
それでも疲れがピークに達し、笹子トンネルの中では少し眠ったかもしれません。
そして、夕刻、無事に八王子駅のプラットホームに立つことができました。
今では夕方のニュースを賑わすかもしれない事実なのですが、昭和の、高度成長期の国鉄と、それを利用する人もなんともおおらかでした。
一昨日(8/16)、久しぶりに横川からスハフ32に同乗する機会に恵まれ、全開した狭窓から線路を眺めていると、そんな40年前の記憶が蘇ったのでした。
今日からゴハチの年齢…
45年目の10月14日
国鉄分割民営化から30年目の3月31日
干支ひとまわりした1月19日に思うこと
鉄道144周年〜44年前のD51-498を添えて
43年前(1973)8月19日の小海線「SLのべやま号」
45年目の10月14日
国鉄分割民営化から30年目の3月31日
干支ひとまわりした1月19日に思うこと
鉄道144周年〜44年前のD51-498を添えて
43年前(1973)8月19日の小海線「SLのべやま号」
Posted by 32Count at 21:00│Comments(4)
│鉄道アーカイブ
この記事へのコメント
旧客の開け放たれたデッキに乗り、吹く風を楽しむ。
何度経験した事でしょうか、あの魅力的な感覚。
ほんと、今の若い人には信じてもらえないでしょうね。
ホームに滑り込む時に、まだ停まらないうちにデッキから飛び降りる。これも何度かやりました(爆)
自分の安全は、自分で守る。つまり自己責任。
それが当たり前だった時代で、何でも「人のせい」にする今の風潮は如何なものかと思います。
何度経験した事でしょうか、あの魅力的な感覚。
ほんと、今の若い人には信じてもらえないでしょうね。
ホームに滑り込む時に、まだ停まらないうちにデッキから飛び降りる。これも何度かやりました(爆)
自分の安全は、自分で守る。つまり自己責任。
それが当たり前だった時代で、何でも「人のせい」にする今の風潮は如何なものかと思います。
Posted by RDP3 at 2013年08月19日 21:59
31年ほど前ですか、皐月高校(現・市立長野)の生徒さんが三才駅で旧客のデッキから振り落とされてけがをなされました。
34年前にクラス男子全員で、お盆過ぎに海に出掛けたときの帰りの列車が旧客で、最後尾からレールを眺めていたのを思い出します。
電車とは違う発車時の動きが、旅情になりますね
34年前にクラス男子全員で、お盆過ぎに海に出掛けたときの帰りの列車が旧客で、最後尾からレールを眺めていたのを思い出します。
電車とは違う発車時の動きが、旅情になりますね
Posted by DT33
at 2013年08月20日 01:30

32Countさま
旧客急行列車に揺られて旅をするのが憧れでした。
小学校高学年から一人旅を始めたけれど、それは特急に
乗って終点には親戚が迎えに来ているような過保護なもの。
初めてドアが手動の旧客急行に乗車した時にやっと1人前に
なれたような気がしました。
旧客急行列車に揺られて旅をするのが憧れでした。
小学校高学年から一人旅を始めたけれど、それは特急に
乗って終点には親戚が迎えに来ているような過保護なもの。
初めてドアが手動の旧客急行に乗車した時にやっと1人前に
なれたような気がしました。
Posted by 狂電関人 at 2013年08月20日 07:22
RDP3さんへ
客車列車乗車の醍醐味でもありましたね。
今の世の中、社会情勢全般が欧米化したというのか、
なにかあると訴訟問題になり、サービスを提供する側はそれを恐れて規制や管理が厳しくなりました。
賛否両論あるのでしょうが、自己責任で片付いた昭和の頃が懐かしく思えます。
TPPの参加に際して、ますます世知辛くなるのですようね。
DT33さんへ
やはり旧客時代にも転落事故、あったのですね。
31〜34年前の客レというと、直江津から高崎に向かった列車でしょうか。
最後尾から過ぎ去る風景を眺めるのもオツでしたね。
狂電関人さんへ
昭和の時代、今考えると実に多彩な客車急行列車が走っていましたね。
とくに東北、上信越へ向かう列車はハザはもちろん、ハネやロネなども連結して堂々とした編成でした。
地元の中央線では冬場、電気機関車牽引なのに、煙を吐いているのにびっくりしましたが、今思うとマヌ暖房車を連結していたのですね。
幼すぎて写真はありませんが、記憶にはしっかり刻まれています。
客車列車乗車の醍醐味でもありましたね。
今の世の中、社会情勢全般が欧米化したというのか、
なにかあると訴訟問題になり、サービスを提供する側はそれを恐れて規制や管理が厳しくなりました。
賛否両論あるのでしょうが、自己責任で片付いた昭和の頃が懐かしく思えます。
TPPの参加に際して、ますます世知辛くなるのですようね。
DT33さんへ
やはり旧客時代にも転落事故、あったのですね。
31〜34年前の客レというと、直江津から高崎に向かった列車でしょうか。
最後尾から過ぎ去る風景を眺めるのもオツでしたね。
狂電関人さんへ
昭和の時代、今考えると実に多彩な客車急行列車が走っていましたね。
とくに東北、上信越へ向かう列車はハザはもちろん、ハネやロネなども連結して堂々とした編成でした。
地元の中央線では冬場、電気機関車牽引なのに、煙を吐いているのにびっくりしましたが、今思うとマヌ暖房車を連結していたのですね。
幼すぎて写真はありませんが、記憶にはしっかり刻まれています。
Posted by 32Count
at 2013年08月20日 20:43
