▼同行の写真館さんが撮った小海線のC56-149(無断転載、ゴメンナサイ)。72年当時、混合列車なんて走っていたのですね。同機は清里駅前に静態保存されています
何回か書いていますが、私の出身地は東京の都下、玉川上水べりの緑豊かな地です。
両親は父、母とも九州の佐賀県出身で、東京にはいわば仕事を求めてやってきて、
新興住宅地として都が造成した住宅に当選してその地に住むようになり、私が生まれました。
長野県には親戚縁者がおらず、フリーランスになったのを機に長野県に居を求めてやってきた典型的な「Iターン」。
水がよほどあったのか、住まうようになって20年あまり…。
お陰さまで、もうこの地を離れられなくなりました。
そんな私が最初に長野県に訪れた記録が残っていました。
小学校の卒業文集で林間学校のことを記述しているのですが、読み返してみると当時の様子を垣間みることができます。
時は1972年(昭和47)7月。
まだ砂利道の残る道を土ぼこりを立てながらある寮にバスが入っていきました。
恥ずかしながら、その全文を記してみると…。
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八ヶ岳林間学校
六年間で一番心に残ったことは、八ヶ岳林間学校だ。
親元をはなれて行くのでさみしいような感じもしたが、友だちといっしょにすごしたので、楽しくもあった。
あいにく、一日目は、雨が降っているので、美しの森に行けなかったけど、その夜、まくら投げをしたのがとても思い出になった。
そして、二日めは、飯盛山へ行った。しばらくしたら、国鉄最高地点にきた。山々にかこまれた最高地点は、やはり、最高地点という気がした。そして、天狗山で昼食をした。山で食べたら、とてもおいしい気がした。飯盛山へ行ったら、牛がいっぱいいた。
赤い服をきていたので、牛におそわれるかと思った。その夜、きもだめしをやった。とてもおもしろかった。
三日めは、SLの写真を写しに行った。黒煙をはきながらきた。シャッターチャンス”今だ”と思いシャッターをきったが、運悪くおりなく、とても残念だった。
こうして、楽しい林間はおわった。
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なんとも拙く表現したいことをしきれない文章(爆)。
とは言え、林間学校の様子を伝えてくれていて、当時のことが忠実に思い出されます。
なかでも。
SL撮影時のエピソード。
三日目は班行動ということで、SL撮影のグループに入って小海線へと出かけました。
当時、小海線はSLが現役で運行しており、午前中に1本、小淵沢から中込へと向う貨物列車・193列車を撮影しに、
小海線の最大のお立ち台・境川橋梁でカメラを構えたのでした。
天気は上々、八ヶ岳が見えている絶好の舞台、カメラはカートリッジ式フィルムのコンパクトカメラ。
八ヶ岳と鉄橋の位置はバッチリ、と思って撮影に臨みましたが、記載の通りシャッターは降りず、
原因はフィルムの巻き忘れという単純な理由でしたが、今思っても「逃した魚は大きかった」かな!?
この時の悔しさが鉄道写真にのめり込むキッカケになり、それから17年後、コイツでメシを喰うようになり、長野県へと移住するようになるのだから不思議です。
「三つ子の魂百まで」ではありませんが、子供の頃の経験が将来へとなんらかしらの影響を与えるとしたら、これはこれですばらしいことかもしれません。
今日で学生さんの夏休みは終わりますが(長野県内の小中学校はひと足先に2学期が始まっていますが)、いい思い出となるような経験、たくさんあると良いですね。
*小海線・清里〜野辺山(南牧村)
林間学校同行の写真館さん撮影
1972年7月?
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